2013年4月10日水曜日

キリストに倣いて

キリストに倣いて



記事に「キリストに倣いて」というタイトルを使用させていただいていますが、もともとは完徳を目指して書かれた書物「キリストに倣う」という著作のタイトルであり、信徒として生涯のうちに必ず達成したいという思いがあり、座右の書として大切にしております。



カトリック信者すべてが、聖人となるべく完徳を目指すこと。これこそが天の御父に喜ばれる生き方であり、その模範の人が、十字架刑に処せられ、血一滴、水分一滴、汗一滴残らず搾り取られて苦しみを御父に捧げた御子キリストであります。カトリック信徒は、聖人たちのようにキリストの犠牲的な愛を実践しなければならないでしょう。



ただし、一般信徒はこの世俗社会に生きていくうえで、聖職者よりも多くの誘惑にあい、完徳を志すことは容易ではありません。現代を見渡せば、混乱、不道徳、無秩序が支配しており、私たちの良心を芯から腐らせ、混沌に引きずり込まれる可能性が往々にしてあります。



そのような中で、私たちの最大の目標を、正しい道を歩んでいく道しるべがなければならないわけですが、最大の道しるべは、どんなに苦しかろうと、どんなに悲しかろうと、最終的にたどり着くところは、やはり、十字架しかありませんでした。



マタイの福音書11章28節以降にはこうあります。
「重荷を負って苦労している者は皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は心が柔和であり、謙遜であるから、わたしのくびきを受け入れ、私の弟子になりなさい。そうすれば、魂は安らぎを見出すであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしのくびきは軽いからである。」



人生を苦しく思ったり、つらい思いをしたりした方はどうぞ、十字架を快く受け入れたイエズスキリストに倣いましょう。私たちの主は、それ以上の苦しみを快く受けれいました。苦しみを愛し、わたしたちのために十字架を担い、十字架上の上で、罪びとを憐れむように御父に願いました。



なんという柔和、なんという謙遜、なんという犠牲的愛でしょうか。
私たちは、主に愛されるよりは、呪われた方がよほど釣り合いが取れている身分ではあるものの、キリストは私たちを最後の最後まで愛して、罪びとの回心のために自己犠牲をささげたのです。



天主よ、罪びとなるわれらを憐れみたまえ!



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