ファティマの聖母と数回にわたる私的示現
ファティマにおける聖母のメッセージは、私たちに何をもたらすのでしょうか?
悲劇でしょうか?それとも希望でしょうか?そのメッセージの厳しさから、私たちは、自分の罪深さに打ちひしがれそうな気持になります。
牧童3人は、聖母から天国行きを保証されました。しかし、ほんの子供にすぎないのにもかかわらず、地獄の光景をもお見せになりました。死後の天国行きの約束がなければ、子供たちでさえ地獄の光景を見て押しつぶされそうな気持になったのですから、罪深い私たちはどれだけ恐れなければならないことでしょうか。
牧童の一人ヤシンタに、聖母が私的にお会いになったときがあったそうです。
ヤシンタが病気になって(同時にフランシスコも病気に)から聖母の訪問がありました。その中で聖母は、もうすぐフランシスコを天国に連れて行くこと、罪びとのためにたくさんお祈りをしたいかどうかを尋ねました。ヤシンタは喜んで「はい」と応えました。
聖母は、ヤシンタが病院でとても苦しむことになるけれども、それは罪びとの回心のため、そして、けがれなき御心に対して犯される罪の償いとなることを、ヤシンタに述べたそうです。
ヤシンタはそのことを見舞いに来たルシアに語りましたが、頻繁に見舞いに来るルシアと一緒に、何時間もあの奇跡的な聖母のご出現に関して語りました。
牧童3人に共通することは、天国への強い憧れと、罪びとの回心のために自らを犠牲にすることをいとわない精神です。ヤシンタは、小さな女の子なのに、罪びとの回心のために自ら犠牲となることを受け入れ、事実、病院でとてもとても苦しみました。
喜んでそんな苦しみを追うことがなぜできるのでしょうか?
それは、実はとても単純なことだと思うのです。
強い天国への憧憬こそ、彼らの英雄的なカトリック的な自己犠牲という強い衝動に駆られたのだと思うのです。もちろん、聖母を悲しませたくないという気持ちもあったでしょう。主イエズスが、侮辱され悲しまれているので慰めたいという気持ちもあったに違いありません。
けれども、聖母の御出現を通して、天国の存在を頭の中ではなく、確実に存在するということを肌で感じた牧童たちは、霊魂の不滅という現実をまざまざと感じ、死後に天国か地獄かという避けられない選択肢が迫っていることを直感したはずです。
フランシスコはできるだけ地獄のことを考えたくなかったそうですが、悪魔の姿を見て驚き
地獄の存在を認めざるを得ませんでした。地獄に行きたくない、フランシスコはその恐怖に駆られました。天国への思いを強くしたことでしょう。
私たちも地獄を恐れて、天国に行けるように聖母の取次ぎを願わなければなりません。
天主よ、われらを悪より救いたまえ!
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