2014年3月28日金曜日

手での聖体拝領?否、口での拝領こそ教会法に則っている

ファティマクルセイダーのニコラス・グルーナー神父記事紹介



「口での御聖体拝領か、手での御聖体拝領か」と言う問題について、ファティマクルセイダーのニコラス・グルーナー神父の記事を紹介します。「ファティマクルセイダー28号」の中の古い記事(1989年6月7月)ですが、御聖体に関する指針も、現在でも有効です。教会法の視点からとらえた、御聖体拝領のあり方についてです。グルーナー神父によれば、手での御聖体拝領はかなり制限されているということのようです。

しかし、日本のカトリック教会では、手での御聖体拝領が主流になっています。これはローマカトリック教会の教会法(や神の啓示)よりも、日本のメンタリティや伝統を尊重することを意味していますが、このことは汚聖が蔓延る状態をゆるすことになり、カトリック司教団の責任は相当重いものです。

大切なのは、私たち霊魂の救いです。教会法もこの第1義に基づきつくられれているのであり、その第1義を軽視して、日本の精神にそぐわないからとか、メンタリティに合わないから、手で御聖体
の拝領を強要するのでしょうか?

もし、日本のメンタリティに合わせるのなら、御聖体への態度として、土下座を敢行するべきだというのが、大方の日本人が納得する結論です。なぜなら、私たち罪深い人間は、どれだけ天主に対して侮辱をし、軽視し、毎日罪を重ねて、それゆえにどれだけ償いを果たさなければならないのかを鑑みれば、日本国民のメンタリティに合わせて、土下座を持って、天主に赦しをこい願わなければならないからです。

残念ながら日本の司教団はそのことを思いつかなかったのでしょうか、日本人のメンタリティや伝統(非キリスト教的)を尊重するけれど、天主に対する必要不可欠な敬いと、第1義である霊魂の救いを、司教団は忘れてしまっているのでは、と言わざるを得ません。ここに、第2バチカン公会議の悪しき司教団体制という本質が見えてくるような気がします。

この記事を読まれたイエズス会の司祭、サレジオ会、フランシスコ会などに属する神父様は、是非、今後は手の御聖体拝領を慎むべきではないでしょうか。これは、一信徒のお願いではありません。教会法を勉強なされば、手での御聖体拝領は、汚聖につながる可能性があると言うことが理解できるはずです。もし、それを知りつつ司教団の命令を理由に、手への御聖体拝領を許し続けるのならば、天主への不敬を許し続けることになり、永遠の罰を免れることはありません。


また、カトリックの信徒も、今後は手での御聖体拝領をやめ、口(舌)で直接いただくことをお願いします。これは強要でもなんでもありません。それは、私たちの霊魂のために、教会法がそうするように定めているのですから、私たちの霊魂のために書かれた教会法に従わない理由がはたしてあるでしょうか?

記事の下線は管理人が強調して付記しました。また※注意書きも管理人が付け加えています。
補足ですが、教会法と言えば、実際は、カトリックのキャノン(カノン)のことを一般的に指します。ここには聖職者や信徒の権利や義務が定められています。

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なぜ、手での御聖体拝領は禁じられているか

by Father Nicholas Gruner, S.T.L., S.T.D. (Cand.)

以下は、非常に制約された状況下において手での御聖体拝領が許されるという規制についての解説です。

忘れてはならないことは、口での御聖体拝領は教会のきまり(the law of the Church)です。手での御聖体拝領は、法の例外(特別な許し・許可'indult'という)であって、バチカンが概説する全ての条件が存在する場合に限って許されるのであり、それは命令されることではありません。もし、条件が整わないのなら許可は与えられず、口での御聖体拝領のみが許されるのです。


公文書が示している通り、その7つの条件は2つの原則に基づいています。この2つの原則は教皇が望んだからと言って変更できるようなものではありません。その原則は、神の啓示そのものに基づいているからです。


(御聖体に対する)あらゆる醜聞の原因を回避すること


最初の条件は(御聖体に関する)すべてのスキャンダラスな原因を避けよということ。言うまでもなく、この原因がゆるされて、カトリック信徒が「(御聖体)真の現存」の信仰を喪失したのなら、救霊に関して良くないことです。というのは、御聖体にまします「真の現存」の信仰こそが、救いに必要だからです。

もし手で聖体拝領ができると言うぜいたくさが、信仰の喪失につながり、結果永遠の命を喪失してしまうのなら、(神の現存の醜聞の原因を避けよと教える)聖書の言葉や魂への愛が手による御聖体拝領の禁止を要求するのを、誰が知りえないというのでしょうか。だから、バチカンの文書によって、この醜聞がないように、手での御聖体拝領を許可する明確な条件にしたのです。

つまり、ある場所や教区または地域にて、カトリック信徒が、一人でさえ、それで「真の現存」の信仰をその場で失うのであるなら、たとえ、司教やバチカンが(手での御聖体拝領を)許可したとしても、神の啓示そのものと同様、その許可をした法そのものの条件によって、秘跡執行者(minister of the Sacrament)、神父、助祭、特別聖職者の重大な責任のもと、その場における手での拝領は禁じられることになります。そのような状況下で、司教も教皇でさえもそれに従わなければなりません。

もしある聖職者たちがこの(神の啓示と教会法)ルールに従わない場合でも、かれらの悪しき行いはルールを変更しえないし、たとえ教皇がそう命令したとしても、教皇でさえも、このルールに縛られるのです。


バチカンの文書による第2の原則は、神の啓示(※神を敬え)に基づいており、変更不可能な神の掟であるがゆえに、全ての人、また教皇御自身でさえ変更を加えることができません。


あらゆる不敬の危険を回避すること


第2の原則は「御聖体に対する全ての不敬の危険性を除くこと」です。御聖体は、真の神かつ真の人であられるイエズス・キリストの体であられるから、神を礼拝せよとする第1戒に、私たちは縛られています。この反対の行いは、神への冒涜の罪となります。もし、手へ御聖体を授けることによって神への冒涜が行われる危険性(が生じる)のおそれがあるなら、手に御聖体を授けるべきではありません。

聖パウロが説明しているように、秘跡の執行者(the minister of the Sacraments)が、各々管理責任を負っています。彼が責任を負っているのは、第1に、教皇に対してではなく、司教に対してでもなく、秘跡を受ける者に対してでもありません。真の神に対して責任を負うのであり、彼(秘跡の執行者)は神の代理者なのです。

そして、その執行者(聖職者)がまず神の代理者として信頼されるようにあるべきです。

御聖体を授ける司祭である聖職者こそが、状況(不敬になる危険性)を精査するべきなのです。その場にいない教皇もしくは司教ではなく、責任者である執行者が判断するのです。

3番目の基準(Norm)を読むときに、これが補助的な原則でありはっきりと認識されます。その基準は、その場での秘跡を管理する神父を除いて、誰が受領者の態度を判断するかという3番目の基準です。まさに、この基準の特性によって、司教でも教皇でもなく、公文書保管庁の職員または近くにいる他の司祭でもなく、ただその場にいる信徒への秘跡を執行する神父だけが、(秘跡を)受ける者の外部的態度を判断する責任があるのです。


そこであなたはこう尋ねるでしょう、手での御聖体拝領によって、御聖体(Holy Eucharist)に対する不適切な事が引き起こされるかもしれないとは、いったいどういうことでしょうか?と。

まさに幾分共通することがあります。特にはっきり言えば、このことです。手で御聖体を受けることで、口に含んだ後に、手の中に残った御聖体の「小片」(fragment)が取れたり、はがれたりして、手の中に残ってしまうことです。その一方、舌での御聖体拝領の場合、かけらが(外へ)取れる心配はほとんどありませんし、危険性もありません。かけらが手から落ちて床に落ちてしまっては、足で踏みつけられることになりかねません。

私たちは、定義づけられたカトリックの信仰のドグマを知っている通り、聖体のどんな小片でさえ、
-真に現存する-イエズスキリストの御体であるのです。だから、聖別された小片を地に落とすことは、主イエズスキリストを床に落としたことと同じなのです。たとえ、それが不注意でなされたとしても、それは汚聖の罪(sin of sacrilege)になります。

この不敬に関する危険は、神の法(Divine Law)に基づき避けるべきです。教皇でさえもこの神の法は変えられません。不敬の危険性を避けるべきという必然的なことがこの法に含まれており、バチカンの文書(※教会法)は、私たちに神の法を思い出させているだけなのです。

もう一度繰り返しますが、秘跡の執行者が個々に責任をもっていて、教皇や司教、枢機卿、司祭、
助祭、または特別奉仕職にある信徒の執行者が、御聖体に対する不敬に関する危険性を避けるようにしなければなりません。

司教がそうするように命令するとか、皆がそうしているとかの言い訳はできません。神の前で、
彼は御聖体のひとつひとつを適切に与える行為の責任をおうのです。

もし、御聖体を手で受けた拝領者が御聖体をいただいた後、かけらが手に残っているかどうかの
確認をしていないということを、執行者がわかれば、大勢の人の中のうちある人は、(聖体の)欠片が手に残り、いづれ落としてしまうだろうと間違いなく思うでしょう。このケースの場合、彼の責任の所在がはっきりしています。たとえ、教皇や司教がその人に手で授けるように命令したとしても、執行者は手へ授けることはできないのです。


ヨハネパウロ2世がそうしてこなかったということを意味しているのではありません。その逆で、私たちはヨハネパウロ2世聖下に対し、深く感謝しています。というのは、イタリアにおいて、教皇は手での御聖体拝領に抵抗したからです。あるイタリアの主要な修道院長(major religious Superior)が指摘しているように、ヨハネパウロ2世がいなければ、イタリアにおいて、手での御聖体拝領がほぼ導入されていたことでしょう。


御聖体の秘跡執行者は、汚聖を避ける義務を負う


実際、手で拝領が行われている北アメリカやその他世界のありとあらゆる場所において、(御聖体を)いただく際に、(御聖体の)欠片があるかどうかの確認のために手の中を調べることに関して、100%の人がそうするわけではありません。それゆえ、御聖体を扱う聖職者は、多くの信徒が集まる教会(public church)で、手に御聖体を配らないことによって、汚聖と不敬の危険を避ける義務を負います。というのは、ある者は、というよりはほとんとですが(数名でも十分な根拠になり得ますが)、聖体拝領後に手を確認しません。それほど多くなくても、少なくとも数名は足元に(御聖体の)欠片を落としてしまう人がいるでしょう。その結果、汚聖と不敬の罪が犯されることになりえます、パウロ6世が、回勅「ミステリウム・フィデイMysterium Fidei(1965年9月3日)」で指摘したように、たとえ、不注意によって起こったとしてもです。

聖職者が(御聖体が落ちる可能性が)ありうると判断すれば、手に御聖体を配るという特別の許可(indult)を与えた公文書の中に記述されている、その許可(indult)そのものの諸条件(terms)によって、聖職者は(手に御聖体を配ることが)許されないのことになるです。たとえ、修道院長が命令したとしても、このような状況下で御聖体を手に配ることがないよう、神の掟(Divine Law)に縛られます。

これら2つの原則を説明した通り、普通の読者は、手での御聖体拝領がいまだに教会の現行の法によって禁止されているということを理解すべきです。たとえ、特別な許可(indult)が、厳密(technically)に解釈されて許されていた場合でもです。つまり、神の掟(Divine Law)と教会法(Church Law)の両方にある許可の条件は、とても厳格ですので、ほとんどの場合、御聖体を手で受ける行為は決して許されることはないのです。

終わりに、私たちが思い出すべきことは、御聖体拝領をする人々は、また不敬が犯されないように注意するべき責任があるということです。しかし、聖職者は必要な警戒から、責任を免れることはありません。

―――――――――――――――――――――
以下の手紙によって、手での御聖体拝領が禁じられている教会の教えと法を解説し
明るみにし、耐え忍んでいる神父、良心のとがめによりこの実行(手に御聖体を配ること)
に従わない神父への迫害を明るみにするでしょう。
―――――――――――――――――――――
1980年1月
イエズス・マリア・ヨゼフ(J.M.J.)

親愛なる教皇ヨハネパウロ2世へ

はじめに
多くのカトリックの神父が、今日教会で蔓延っているある状況に苦しんでいます。というのも、彼らの良心によって手へ御聖体を授けることができないので、神父たちは教区を追われて、(※日本で言う成相神父様のことでしょうか)職務を妨害されています。全ての人が敗者で、司祭が大いに不足しているときは特にそうで、その結果、信徒はお世話をするために、より少数の神父と一緒に去っていくのです。このような状況を改善してくれますようお祈りをしております。私たちは再び天主と聖母の光栄のために、そして、霊魂の救霊のために、使徒職を継続でき、邪魔されないようすることを願い希望しています。

教皇様、私たちを助けてくださいますように!


ある神学的見地における熟考


御聖体の通常の執行者は司祭であるというのは、真実ではないのでしょうか?(C.J.C. 845, 1; Council of Trent 13 c.8, 22 c.1)聖トマスは言っています。

「結果的にキリストの体の聖別は司祭に属するので、同様にその分配(dispensing)も彼に属します」(S.T.III, q. 82 a. 3

執行者が、個々において挙行する秘跡の適切な扱い関して、神に対して責任を持っているのは真実ではないのでしょうか?しかし、ある司祭はこう自問しています。「一司祭が神に対して責任をどのように負うのか?もし、神と教会が私たち司祭に、天主の掟と教会の普遍の法に従い、御聖体を配るために権限を持つ者を送ってきたなら。」と。

ラテン典礼の普遍の法が、今日も、聖別された御聖体を拝領者の舌にのせるべきだとしているのではないでしょうか?メモリアーレ・ドミニ(Memoriale Domini)の回勅にはこうあります。

「…教父は御聖体を信徒に与える現行の法を変更しないことを決断しました。」


「それゆえ、司教、司祭、そして信徒に、今日も有効で、再確認されたこの法に従うように、使徒座は強く奨励します。」と。


ニコラス・グルーナー神父とサンタレンの御血を流す奇跡の御聖体

ある婦人は御聖体を汚す目的で、ハンカチの中に御聖体を隠して持っていた。御聖体は奇跡的にも、とめどなく血を流しつづけるので、婦人はそれを地元の教区の司祭に返しました。
13世紀の出来事で、現在は、ポルトガルのサンタレンに、その御聖体は保管されています。








御聖体拝領の執行者としての司祭の権利と責任

それゆえ、多くのローマカトリックの神父にとって、神の掟や教会法によって手へ御聖体を配ることは義務付けられていないようです。彼らの教区において、その司教が合法的に、手での御聖体の
許可を与えたとしてもです。聖座が与えた特別な許可(indult)が、舌で(直接受ける)御聖体を配るという法から司祭を免じることはあっても、手に御聖体を配ることを(司祭に)命令することはないのです。

さらに、手に御聖体を授けるという特別な許可indultは、ある状況下においてのみ許されるようです。
そのうちの一つは、

「Si deve fare attenzione a non lasciare cadere ne disperdere frammenti de Pane Eucharistico. Come pure si deve curare la conveniente mondezza delle mani ..." (A.A.S. 1969, p. 547. Notiziae 1973, circa p. 295.」
「御聖体であるホスチアの欠片が落ちたり散乱しないように注意しなさい。また、(御聖体を受けるに)ふさわしい清潔な手であるか注意を払いなさい。」

それゆえ、聖座が特別許可のために実際に規定したその条件(conditions)が、御聖体を授けようとする時点で存在するかどうかを、御聖体を授ける司祭が判断しなくてはならないことになるようです。

そして、さらに、ラテン典礼に関する教会法に従うなら、司祭は手で御聖体を授けてはいけないことになるようです。もし、特別な許可(indult)を行使する必要な条件が実際存在していないならです。

さらに、手に授けることが神の掟と良心に反すると思うのなら、司祭は、手へ授けてはいけない
と言う義務を負うことになるようです。(拝領後に、無知や不注意である信徒が聖別された御聖体
の欠片を床に落としてしまうことを、疑いなく確信するとき、起こりうるだろうという事について。)

それゆえにまた、ある場合に、またはどんな場合でも、司祭が手へ御聖体を授けないことを選択
するなら、この理由で、いかなる者によっても、また複数のカトリック司教によっても、その使徒職
を罰したり邪魔したりするべきではないということのようです。

だから、敬意を表して、あなたに懇願します、教皇様。多くのローマカトリック司祭は、個人的かつ司牧上の重大な理由により、手での御聖体拝領を選択しませんでした。その結果、彼らは事実、重大な損失を被りました。苦しむ人々の名によって、あなたに懇願します、教皇様。

もし可能なら、教皇様、どうぞ私たち司祭に、公的な権威ある宣言をお与えください。手へ御聖体を授けないという理由で、司祭はだれも苦しめられず、罰せられることなく、邪魔されないということを宣言し、その宣言をすべての司祭と司教が簡単にアクセスできるようにしてください。 

イエズス・マリア・ヨゼフのうちに
神父ニコラス・グルーナー


――――――――――――――――――――――――

(※グルーナー神父からカナダのある司教への手紙)

1982年6月3日

司教様へ…

本日は、お電話ありがとうございました。引き続き、司牧的かつ父親らしい御配慮ありがとうございます。1981年6月、9月、10月、1982年2月と5月にお会いできた貴重な時間も感謝いたします。

あなたの管区の一教区で働くことを本当に楽しみにしています。教区でお手伝いをさせて
いただき、また同時に大きな経験も得られるだろうと思います。

あなたが、私とお会いすることができるそのようなお立場でいること、実際、あなたの管区で同時
に大いにお手伝いするだろうことは、あなたの教区で司祭がそれほど不足していて、またカナダ全体がほとんどそのような状況の中、養父の指導のもとで、教区司祭として教区を喜んでお助けしたいと望む本当の理由です。教区のための一助となる一方、ファティマの聖母の使徒職を継続するチャンスについても感謝申し上げました。


司教様が知るように、去年の10月、分別をわきまえない手への御聖体の授与における私の良心の咎めについて、手短にお話しました。

再び、今年5月、私が理解している手での御聖体拝領に関する現行の教会法について、そして、御聖体(秘跡)の執行者としての義務についてあなたにもう少し詳しく述べました。申し上げていた通り、あらゆるところで手での御聖体拝領を許可をすることがなぜ私の良心に反するのかについて、簡潔に要約しましょう。

そのため、あなたに1980年1月に教皇ヨハネパウロ2世に送った3枚の手紙(※上記の手紙)のコピーを同封します。また、ファティマクルセイダー7号(1981年春発行)の1ページ分も同封します。その機関誌に、典礼聖省(the Sacred Congregation for Divine Worship)の枢機卿長官と大司教秘書官がサインした公式文書(letter)の、非公式の翻訳文を掲載しました。

原文の文書は1969年Acta Apostolicae Sedis(※聖座or使徒座公報)のページ546-547にあり、その文書は、今日でも、今なお有効です。1980年バチカンに訪問した際、権威ある省の当局者からそう伝えられました。

私の理解がそうであるように、1980年に更新されたものとしてこの文書が、カナダにおいて手での御聖体拝領の特別な許可(indult)に対して影響力を持ちます。添付された追記説明の中に見られるように、1981年の春に入手可能となった最新の裁定(rulings)が、この翻訳文で更新されました。

これらの文書で紹介しましたが、先週個人的にお話したことを繰り返します。カナダを超えて大西洋から太平洋へと飛びましたが、手での御聖体拝領時、御聖体の小片に対して十分な注意が向けられていません。

小片が落ちないように注意することは、(御聖体を手で拝領する特別許可の)必要条件のはずです。
条件が整わない場合、(上述した内容とここに同封したコピーで述べている通り)与えられた特別な許可と影響力を持つ文書によって、御聖体の執行者は手への御聖体の授与は許されないのです。

 そして、事実特別な許可の中で述べられている必須条件は、パウロ6世の教導権に反映されており、
ミステリウム・フィデイ(1965)Mysterium Fidei」の回勅の中で教皇は原文を引用し承認して、こう言っています。床に御聖体の小片を落とすものは誰であれ、不注意によって、罪を犯すことになる、と。

また、教皇ヨハネパウロ2世への手紙の中で示したように、聖別された小片が地面に落ちるということを分別を持って予見でき、かつ防ぐことができるのなら、御聖体の秘跡の執行者は(そうしない)不注意によって罪を犯すことになります。

それゆえ、実際、この決定(※手での御聖体拝領を許可しないこと)こそが、与えられた特別な許可と倫理神学の両方において、私の道義的責任であると感じます。もし、不注意によってホスチアの小片が床へ落下するという汚聖が、手の拝領によってカナダの教区の教会で起こりうるだろうということを考慮するなら。

この結論は、御聖体を手で受けた後、誰一人として一般信徒は手を確認せずに、御聖体をいただいているという私自身と他の神父の経験に基づいているのです。

手の御聖体拝領の実践は、結果的に、御聖体の小片を床に落とすことになるだろうと間違いなく確信していますし、それゆえ私は、-(個人として司祭として召されているので秘跡の執行者の主要な責任を持つ者として)-良心に従い、厳格に規定された特別な許可(indult)に従い、手へ御聖体を授けることはしないと決意するのです。-汚聖が行われないと確信しうるまでは(そう)です。

手紙が長くならないようにしますが、信徒は手で受ける権利はあるが、司祭が手への御聖体の授与を拒む権利があることは知らないというあなたの意見について、ヨハネパウロ2世への手紙を引用させてください、そこに私は御聖体(秘跡)の執行者としての神父の権利について言及しています。あなたのご質問はそこで十分に扱われていると私は信じています。

紙面上の問題により手短に指摘申し上げると、特別な許可(indult)である3番目の基準について、その基準は、御聖体への信仰心を、手での拝領によって高めることができるふさわしい(qualify)信徒に対して、手に御聖体を与える行為を限定しているのです。


さらにまた、基準3番目である特別な許可(indult)によれば、拝領者の外的行為を判断するのは、その場にいる司祭の責任であるのであって、個々人の信徒が、手で拝領することにより、信仰が高まったかそうでないかとかは(基準と)関係ありません。この新しい実践によって、真の現存(Real Presence)に対する信仰が高まったということを、私は知りませんが。

私は個人的に、教区で手で拝領をさせない別の理由があるように思います。言及したように、サタンの教会が運営されて(open the door)いる○○都市の○○教区では(そうでしょう)。悪魔的な黒ミサに用いる聖別されたホスチアを活動的に探し求めていることは、あなたがお気づきでしょう。わたしは教区民をよく知ることができるまで、手に御聖体を授けるのに信頼できる人が誰なのか知ることができるしょうか?

こんなすぐに、こういった手紙を書かなければならなくなるとは思いませんでした。この事態を別の法的権限を有する代理者にゆだねて、単純に御聖体を授けないことによって問題を避けることを私が望んでいたのはあなたの知るところでしょう。わたしはカナダで、この事態が問題化しないように5年も努力してきたのです。

自分として、本当に個人的な不都合をできる限り避けようと、私は手へ御聖体は授けないということを周知させています。私の兄弟である神父を叱るようなまねをしたくないし、他の人よりも霊的にすぐれているとか、自分自身が目上としてふるまっているかのように思われたくなかったのですから。そのような見せ掛けは、ただ私の使徒職により大きなダメージを与えるだけでしょう。


最もあてはまると思われるのは、多くの神父はindultの正確な条件を知らず、北アメリカのほとんどの神父は、その条件をいまだ見たことがないということです。
(1981年にこれを公表する以前に、北アメリカでは、まだ公表されていなかった。)

そういうわけで、手に授けることで課せられる厳しい義務(※不敬・汚聖を避ける義務)を私が知るように彼らが知るということを、私は期待していません。そのことを彼らに伝えることは義務だとは考えませんでした。わたしの立場上、そのような仕事は難しい。わたしは司教でもありませんし、兄弟である神父たちに命令する立場にもありません。

あなたは本日のお電話で、教皇様や教会以上に、よりカトリック的に振る舞うべきではないと仰いました。司教様が知るように、教皇様も御聖体を手に授けませんし、許可を受けている国においてもそうです。テレビで拝見したように、教皇は手を出したアメリカの司教たちにも手に授けることを拒否しました。フランスにおいては、フランス大統領夫妻にも、手での御聖体拝領を許しませんでした。

ヨハネパウロ2世へのわたしの手紙と、特別の許し(indult)の細かい条件もそうですが、この手紙を注意深く考慮してみれば、わたしが教会以上にカトリック的ではないということは明らかです。実際は、教皇と現行の教会法が(そうすることを)私に要求していることなのです。

けれども、これがはっきりしないのなら、それは、私が答えていないいくつかの点があるにちがいないからでしょう。ある点についてはもっとはっきりすべきだったでしょうが、簡略化し、手紙がさらに長くならないようにしたためです。私の論拠に対するあなたのどんな異議についても、ご返答する機会をください。

この手紙を読んで、この点について、私はカトリック教会よりもカトリック的ではないということを
御認めくださるよう望みます。

お電話で、あなたは仰いました。学びすぎても自分のためにはならない、と。それについては同意します。私は、良心を学び形成したので-(そして多くの人は、カトリックの教えを知るべきであったし、そのきっかけを持てなかったわけですが)-事実上私は任期を終えずに締め出されてしまいました。

神に仕えることと活動を通して霊魂を助けるということのために司祭に叙階され、司祭職を始めましたが、あなた部下の人事部役員のような聖職者の圧力によって、母国であるカナダで、カトリック信徒への奉仕職から追放されている状況です。

しかし、もし、この問題について、実際、私自身の良心が教会の精神に従って形成されていないと言う意味で、あなたが「学びすぎ」たということをおっしゃっているのなら、私自身の良心に反して、教会の教えに基づいてた開かれた誠実な論拠を、学ぶつもりです。もし、私が間違っているのなら、喜んで多数派に従うべきでしょう。私の生き方を計り知れないほど容易にしてくれるでしょうから。しかし、この点について、私の良心を混乱させようとする者またはそうできる者に、まだ会ったことがないように思います。

それゆえ、ここカナダで使徒職を行うという私の夢がただの夢に過ぎず、私は学びすぎているので、「政治犯」のように、1982年のペンテコステの手紙でカナダのカトリック司教団が言及した「国外追放者exile of conscience」になるのだろうと思います。

管区に来る私の唯一の障害は、手へ御聖体を授けないことだということを正直と寛大さを持って私に仰ってくれることに感謝します。


私の良心がこの問題を受け入れ、カナダでの仕事の機会を得る良い方法が見つかることを望んでます。-(先週あなたのオフィスでお会いした時、あなたは私が司祭職を果たすことをお許しになることを
望んでいるようでした。けれども、手への御聖体拝領に対する私の立場が知られれば管理上の問題があるということをまさに予見しました。)

どうやら、どなたかが、そのことについて人事部会に報告したようです。私ではありません。1982年5月31日月曜、私は、あなたの管区に加わる申請を検討するためにお会いした人事委員会のメンバーとお会いしました。月曜の朝10時10分ごろに、モンシニョールA神父とモンシニョールB神父にだけお会いしました。2人の神父が私とモンシニョールAのオフィスでお会いするために、数分ホールで待っていました。(※モンシニョールは高位聖職者への尊称)

委員会の3番目の委員は出席しませんでしたし、名前はわかりません。B神父は、数分後にミーティングを去りました。A神父とは20~25分間英語とフランス語でお話しました。委員の誰一人として、手での御聖体拝領に関して質問してきませんでした。(そのことを)持ち出しもしませんでした。私がそのことについて良心に従うということが、彼らにとって問題であったとは知りませんでした。彼らが質問すれば、私は彼らに説明できたでしょう。

司教様がこの手紙をご検討し、お電話で仰ったように、特に今すぐ司祭が必要であるのですから、
あなたの管区で私をお手伝いさせてくださるようお願いします。

この行き詰まりを回避するなんらかの方法があると強く望んでます。あなたの管区で奉仕し、良心に
反するようなことは求められないということを望みます。

可能な解決法は試験的にではありますが…あなたに奉仕させていただき、手での御聖体拝領に関して、私の良心によって教区が分断してしまうようなら-たとえこのことについて私がするであろう唯一の方法が御聖体を与えないということであろうとも-いつでも私を解任することができます。

おそらく、あなたのおそれは根拠がないものだと言えます。というのも、わたしは、手へ御聖体を与えないM神父のことについて言えますが、その教区司祭は○○管区の○○教区で、手に御聖体を与えません。また、信徒もそのことについて知っています。舌でのみ御聖体を授け、通常の日も日曜日のミサにもそうしますが、信徒は誰も気にしていません。(例外としてまれなケースでは、その後にある見知らぬ者がM神父に個人的に反対をするくらいです。)

M神父が来れば、彼の良心の咎めにより、手に御聖体を与えないだろうと、教区長であるS神父が説教壇から信徒に報告をしました。教区の人々は、神父の良心を尊重し、このことについて、彼を煩わせることは望みませんでした。

今も、数年間このことが続いていますし、教区は分断されていません。この教区に数年間何度も訪れましたが、神父たちはとてもうまくやっていて、信徒たちも分裂していませんし、M神父も教区長のS神父もあなたにそう報告すると確信しています。

この手紙を受け取りご検討くださることに感謝いたします。聖母の汚れなき御心がいつか来たる日において私たちの避難所でありますように、


イエズスとマリアのうちに
ニコラス・グルーナー神父


注意:

今回、手での拝領に関する規則と文書を公開した理由は、多くの司祭が私たちに連絡を取り、手に御聖体を授けないために迫害されていると述べているからです。

追記

1.教皇がはっきり述べているように、教皇自身が手での御聖体拝領の実践に反対(against)しています。しかし、最近進歩的な司教たちのプレッシャーによって、許可するようにという(司教たちの)主張に対して、教皇は時々応じました。

教皇の見解として、適切な状況が存在しない場合、多くの場合は手での御聖体拝領を拒む権利を
行使してきました。










パードレピオ神父
御聖体を口で受けるピオ神父


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