2013年7月22日から29日まで ブラジルへ訪問
24日から28日に行われるワールドユースデーに合わせて、教皇フランシスコがブラジルへ訪問されます。ブラジルにおける教皇の使徒職が多くのブラジルの信徒(特に若者)にとって慰めと勇気となり、カトリックの繁栄の一助となりますように。
さて、ブラジルでは、教皇の訪問前にちょっとした問題が起こったようです。ヨハネパウロ2世によって司教の位に上げられたブラジルの Milton Antonio dos Santos大司教が、跪きながら御聖体を口で受けることを禁止するという通達を教区にだしました。7月11日の司教の通達(encyclical)にて、キリストの御聖体における現存については何も言及されなかったようです。
なぜ御聖体を跪いて口でいただくことを禁止したのでしょうか?それは共同体の一致のための指導なのだそうです。ここにも、カトリック内における大きな背教を見て取れるのです。なぜ、ブラジルの最高使徒職に就く大司教がこのような反カトリック的な通達することができたのでしょうか?それは、多くの人が否定したい第2バチカン公会議の影響によるものでしょう。教皇と同等の権能を持っているかのような司教団体制なるものが、大司教に誤った行動をさせたのだろうと考えます。なぜならエキュメニズムの一致は優先事項であるからであり、こうした考えがカトリックの教義に影響するまで波及しているからです。
第2バチカン公会議前までは教会内において跪いての聖体拝領は常に許可され、立って聖体拝領することはありえませんでした。跪いての聖体拝領は、御聖体への敬意とふさわしい礼拝行為としてみなされ、常に教会では推奨され、第2バチカン公会議後も、司教協議会総会にて例外的に立って聖体拝領することが認められたにすぎませんでした。
しかし、いつごろか立って御聖体を受けることが跪くことよりも優先される事態が発生し、しかも、場合によっては跪くことが禁じられると言った現象が教会内で見られるようになりました。
管理人も悲しいかな、ある司祭により立って御聖体を受けるように指導されましたし、またある場所では、跪いたと同時に、立ちなさいと命令されることもありました。その時は、渋々認めて御聖体を受けざるを得ませんでした。
話はブラジルに戻りますが、ブラジルのドスサントス大司教は、11日に禁止の通達をホームページにのせたそうですが、13日には多くの批判を受けて掲載を取り除きました。補足ですが、興味深いことに2012年に、大司教が管轄する Ciuabáの教区で調査を行ったところ、57%の信徒が跪いて口での御聖体拝領することを希望していることがわかっています。
結局、大司教ドスサントスは、通達を撤回し、跪いても立っても御聖体拝領を受けられるし、強制することはないと表現を改めました。
ファティマの第3の秘密について
「ゴルバチョフとは何の関係もありません。祝されし乙女は我々に教会における背教を忠告したのです。」-聖職者省元長官枢機卿シルビオ・オッディ
+主よ、憐れみたまえ!
LIVING INFINITE LOVE!
返信削除聖母マリアの汚れなき御心のうちに
至聖なる三位一体の神の愛は、あなたとともに!
いつもありがとうございます。
そういえばヨハネパウロ2世の時代、たしかベネディクト15世がラッツィンガー枢機卿だったときに、「あがないの秘蹟」がでたのではなかったでしょうか。こんにちインターネットが普及していて、いち早くそれを見つけた私は、教区の神父さまにお伝えしようとしました。お一人には怪訝な対応をされてしまい、もうお一人は教皇庁のHPのコピーを受け取ってくださいました。お二人とも、聖なる方だったのです。でも恩恵についても、神様のお考えの順序があるのだろうと思い納得した次第です(笑)膝まづいて口でのご聖体拝領は、あがないの秘蹟の中にも、ふさわしい礼拝だとあります。手での拝領の場合は、何らかの敬いの行為が推奨されています。神様がいらっしゃるところが天国だと信じることのできる私たちは、ホスチアの中の天国をお迎えするとき、最高の礼拝でもってしたいとごく自然に思ってしまいます。というよりも、実際はホスチアに現存する神様にお迎えしていただいているのですから、諸天使や諸聖人がかしずく中、無礼はかえって恥ずかしいことのように感じます…
しかし、信仰は神の恩恵だと言っておられたマザーテレサの言葉も、謙虚に受け止めることができます。私の大好きな神父さまで、ママ・マリアを誰よりも愛しておられる方についてです。ごミサのたび聖なる使徒職の尊さは、その手の中に神様をお迎えできる力をもって行っておられるのに!主イエスは帰ってしまわれた、とだけ考えておられます。でも、神様は聖トマスに与えられたような特別のお恵みを用意しておられるのかもしれません。きっとそうだとと信じています。なぜなら私は毎日、お祈りを所望されたその神父さまのために祈っていますから。
私たちにも、いつか多くの聖人方が感じた信仰の闇が来るかもしれません。その日にはリジューの聖テレジアように、未信者の心を体験させてくださった恵みを感謝いたしましょうか、それとも、人となられた神の御子のように「我が神、どうして私をお見捨てになってしまったのでしょうか」それでも「すべてを委ねます」と神の御心へ飛び込みましょうか。
パパ・フランシスコのブラジル訪問においても、多くの霊魂の中のイエスさまをお喜ばせできますように!
私たちも、聖母マリアの愛にあふれる御心のうちに祈りましょう!
お返事遅れてしまいましたこと、お許しください。
返信削除>膝まづいて口でのご聖体拝領は、あがないの秘蹟の中にも、ふさわしい礼拝だとあります。手での拝領の場合は、何らかの敬いの行為が推奨されています。
残念ながら少なくとも、日本ではそれが守られていませんね。その原因は、やはり第2バチカン公会議の自由主義とエキュメニカル運動が背後にあることは否定できません。とても悲しい現実ですね。
>私たちにも、いつか多くの聖人方が感じた信仰の闇が来るかもしれません。
はい、残念ながら今がその時だと思います。秋田の聖母、ファティマの聖母、善き結果をもたらす聖母(Our Lady of Good Success)などで預言された出来事はまさに今起こっていることですね。バチカンの高官はこのことをよく理解していると思います。
+Pax te cum+
「悪魔の働きが教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。」-秋田の聖母