典礼改革のため、ラテン語から英語へ翻訳する典礼国際委員会(1964年)が立ち上がり、当時の諮問委員であったステファン神父は、その後のカトリック信仰の破壊をまざまざと思い知らされ、公開謝罪の手紙を2002年10月に発表しました。神父の心からの懺悔に耳を傾けてください。
Stephen F. Somerville
ローマ典礼のカトリック信徒の皆様へ
私は一神父として、数十年にわたりカトリックの信仰にはっきりと害を与える仕事に携わってきました。今ここで、私は神と教会の御前で心よりお詫び申し上げ、その破壊的な計画に参与することを
断固としてやめることを決意いたします。私が話しているのは、第2バチカン公会議以降の典礼を英語に翻訳する公認の職についてであり、私は英語典礼の国際委員会「ICEL」の諮問委員会のメンバーでありました。
私はカナダのトロント大司教区の一司祭であり、1956年に叙階されました。若き頃より典礼に魅了され、私は1964年に新しくできたICELの諮問委員会のメンバーとして選ばれました。33歳という最も若いメンバーとして、私は典礼論とそれに付随する法規の自身の不十分さに無様にも気づかされ、私たちのうちに常に増していく、過激で進歩的な要素(原因)によって自信満々に提案され押し付けられた大胆な誤訳を前にして、すぐに私は当惑を感じました。気づきながらも、私は委員会の多くの翻訳のうちにある間違いについて声を上げることができませんでした。
いくつかの例を手短に示したいと思います。司祭が頻繁に挨拶するところで「主は皆さんとともに」
と言い、信徒は伝統的に「そして司祭の霊魂とともに」、ラテン語では「Et cum spiritu tuo」と応えます。けれども、ICELはそれを書き直して「また皆さんとともに」としました。このことは全体的に平凡でありながら、かつ「また”also”」という余分な単語を付け加えました。より悪いことは、私たち人間は霊的な魂を持つということを思い出させる単語「霊(魂)"spirit"」を省いてしまったことです。
さらに、聖パウロの手紙にもでてくる「あなたの霊とともに」という(インスピレーションを受けた)4度の繰り返しの使用をやめたのです。
回心の祈りの「私は告白する」では、ICELは3度の「我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり。」を省略し、たった1度の「私自身の過ち」として代用したのです。これは、さらなる罪意識の破局の一歩です。
御聖体拝領前、私たちは「主よ、私の(家の)屋根の下まで御出になるほど私は値打ちのある者ではありません。」とお祈りをしますが、ICELはこの部分を「あなたを受けるに値しない」と変更しました。屋根という象徴は、マタイ福音の8章8節ではっきりと繰り返され、子供としての生き生きした具体的なイメージであるのですが、これを省いたのです。
ICELの変更で本当に破壊に至ったのは、特にミサの祈願(oration)です。年間第21主日のコレクト(The Collect)や導入のお祈りはまさにこのことを実証しています。
ここに厳密に訳すと
「おお、信徒の心を一つにする主よ、あなたが命じる愛とあなたが約束される望み(の恵み)とを、あなたの民にお与えください、世俗的な多様さのうちにあって、私たちの心が真の喜びを見出すその場所に留まることができるように。」
(O God, who make the minds of the faithful to be of one will, grant to your peoples (grace) to love that which you command and to desire that which you promise, so that, amidst worldly variety, our hearts may there be fixed where true joys are found.)
ICELの1973年から使われている版では、この部分を、
「父よ、この変節する世界のうちに私たちに終わることのない喜びをもたらす価値(values)を探し求める手助けをしてください。あなたが約束されることを私たちが切望する中で、心のうちに私たちを1つにしてください。」
(Father, help us to seek the values that will bring us lasting joy in this changing world. In our desire for what you promise, make us one in mind and heart.)
ここでいくつかコメントをします。天主を「父"Father"」と呼ぶのは、天主の祈りの「我らの父よ」を除いて、典礼上慣習的ではありません。「探す手助けをしてください"Help us to seek"」が暗示していることは、私たち自身だけで探すことができるだろうことを示し(ペレジアンの異端)ていますが、だが神の助けを幾分欲しているということになります。イエズスは言います。「私がいなければ、あなたは何もすることができない。」と。ラテン語では「お与えください(私たちに)」と唱えますが、ただ「手助けしてください」とは唱えません。ICELが使う「価値"values"」には、流行語としての「価値観"values"」をほのめかしていて、それ(価値観)は今流行りのものであったり、政治的な正しさを言ったり、もしくは人々や、また場所によって変化するものなのです。「この変節する世界にあっての終わりなき喜び"Lasting joy in this changing world"」なんというのは不可能なのです。「切望する中で"In our desire"」から、すでに私たちはその望みを持っていることが憶測されますが、ラテン語では、この望みを謙虚に祈り求めるのです。「あなたが約束されること"What you promise"」の部分では、「神が命じられること"what you (God) command"」を省き、それゆえ私たちの義務感を弱めてしまっています。「心のうちに私たちを一つにしてください"Make us one in mind (and heart)"」の部分は新しい文で、メインの嘆願のように見えますが、先の部分(前文)と一致しないのです。
ラテン語ではむしろ私たちの心を一つにするのは神の絶え間ない働きであることを教え、神の命令と約束を私たちが熟考することで(それは)達成されるのです。明らかに、ICELは新しいお祈りを書いたのです。これら全ての批判は重要なことなのでしょうか?大いに(重要です)。典礼は祈りの法であり(lex orandi)、それは信仰の法(lex credendi)を形成します。もし、ICELが私たちの典礼を変更したのなら、私たちの信仰も変っていくでしょう。(実際)私たちはこの変化のしるしと私たちの周りで起こっている信仰の喪失に直面しています。
ラテン語のカトリック典礼の祈願を弱めてしまったという上記の例で十分であるに違いありません。ICELの度重なる作業(翻訳)のうちに、何千もの誤訳が確かに存在するのです。作業が進んでいくと、私はますますはっきりと批判的になりました。1973年ごろに自主的に諮問委員の職務の期間を終えてから、私は名誉会員と相談役に指名されました。この手紙で、私はこの地位に存在するいかなる事実も否定いたします。
ICELの働きは決して全否定されるものではありませんでした。豊かに兄弟のようにわかちあえたこと、教会の知識の成長的な蓄積、ローマやロンドンその他の場所におけるカトリックの存在、第2バチカン公会議の集会における助言、名高いキリスト教徒との出会い、その他諸々も含めて、好意的な評価を持って思い出すのです。感謝の意を持って2人のICELの同僚を認めます。故ハーバート・フィンバーグ教授とエディンバーグのイエズス会ジェームズクィーン神父は、私よりもずっとはっきりと、模範とすべき正しい翻訳の仕方をその時から知っていたのでした。私がICELでの過去のことを否定するのは、これら積極的な面と人々に対するものではなく、カトリックの信仰と崇拝の腐敗に対するICELの働きが貢献してきたことに対してなのです。この腐敗のために、たとえ個人的なその役割が小さくとも、私は神と聖なる教会に対し謙虚かつ真摯に謝罪をするのであります。
・・・
手紙にはつづきがありますが、割愛します。
http://www.angelusonline.org/index.php?section=articles&subsection=show_article&article_id=2161
+キリエ・エレイソン+
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