Felix Sarda y Salvany神父(1899年 スペイン語の英文翻訳参照)
第2バチカン公会議前Sarda神父は自由主義の本質的性質とその危険性を指摘。これは現代教会内に吹き荒れる自由主義の危険性を如実に表している。先見の明のあるこれらの指摘をあなたはどうとらえるだろうか?今の教会の危機に照らし合わせてみると、うなずけるものがあり、積極的に教会内からこのリベラリズムを駆逐しなければならないのです。
Fr. Felix Sarda y Salvany, 1844-1916
信仰のよりどころであるカトリックが自由主義の誤謬に引き込まれていく様々な方法がある。
しばしば知性の堕落の結果として、道徳的腐敗が起こるが、しかし依然として前者は後者に伴って起こることが多い。異端の歴史を振り返るとこの事実は明らかである。それらの始まりは、有害な自愛心や報復的な不満(な態度)のどちらも(伴い)同じ性質を表してくる。それは、女性が創立者をして冷静さかつ魂を失わせるか、多くの大金が良心を放棄させることのように。
誤謬は、ほとんどと言って原因があるが、それは深遠で入念なものではなく、聖ヨハネが表現した3つの頭を持つ獣を、「肉の情欲(concupiscentia carnis)・目の欲(concupiscentia oculorum)・生活のおごり(superbia vitae)」と呼んでいるものなのだ。
ここに誤謬の原因があり、リベラリズム(自由主義)への道があるのだ。しばらく、これについて考察してみよう。
1.自立と安楽な生活への自然的欲求のためリベラリストになる
リベラリズムは必然的に人間の堕落した本性に共感するが、カトリックの普遍性はそれに反対である。リベラリズムは束縛からの解放であり、普遍性は情の抑制である。まさに本能的に堕落した人間は、知性のおごり並びに情(愛)の権利を正当化し神聖視する。
テルトゥリアヌスは言っている「高い志向をもつ魂は、本性的にキリスト教徒である」と。同様に、原因の腐敗(誤謬である原因)を持つ者は生まれながらにしてリベラリストと言えるかもしれない。そこから論理的に、自身をリベラルと正式に認めるのは、自由主義が移り気や放縦を擁護することに気づいた時なのだ。
2.生活の向上に対する欲求のためリベラリストになる
リベラリズムは思想を支配しているし、それはどこでも、とりわけ公的な(社会)生活の場で支配している。それゆえ、一般の人々の支持において確実な推薦を受けている。
生活の初期から、若者は富、名声、光栄へと導く多様な道を探して回り、志望する目標にたどり着く重要な条件は、少なくとも我々の時代においてはリベラリストになることだと理解する。最初から、リベラリストでないということが、克服できない障壁であるかのような状況に身を置くことになるのだ。砂漠において悪魔がイエズス・キリストを試みた時に「もしあなたがわたしを拝むならば、それはすべてあなたのものとなるだろう。Haec omnia tibi dabo si cadens adoraveris me」(聖ルカ4.1-13)と言ったが、若者らは勇敢にその悪魔に抵抗しなければならないのだ。
英雄はまれであり、キャリアをスタートさせた多くの若者はリベラリズムと連携しなければならない。それによって彼らは、強力な推進役、強力な保護者の推挙、秘密組織の有力な影響力、有名な人物の後援者としての立場を保証される。貧しい地方の住民は何度でも自身を売り込んで名声を博す利益を求めるし、往々にして若者に良心が欠けているものだ。
リベラリズムは、特に今日の時代求めてやまない公的な生活に支持されている。それは魅惑的な誘惑によって公的事務所や委員会、裕福な地位の人々などなど、公的機関の組織によって構成されている人々に広まっている。あたかも政治的な出世のための絶対条件であるかのようだ。不正な汚職を軽蔑し憎む意欲に満ちた若者と出会うことは神の驚くべき恩寵と言えるほどなのだ。
3.貪欲、金銭の執着によってリベラリストになる。
ビジネスで成功するため、世とかかわっていくことは、常にリベラリズムの絶え間ない誘惑である。いたるところで若者に攻撃を仕掛けてくる。若者は自分の周囲で、いろんな方法で秘密もしくは信仰の敵のむき出しの悪意を実感する。貿易もしくは(知的)専門職においては、影響を受けず、看過され、みすごされる。
信仰のうちにとどまりながら、禁止された秘密組織に彼を参加させてみれば、なんと、かんぬきとバールは取り除かれ、彼は成功の「開けごま!」の呪文を手にする。若者に対するねたみを持った差別は敵の兄弟関係のうちにやわらぎ、その敵は若者のあらゆる方法で(リベラリズムを)進展させることによる裏切りに報いている。そのような誘惑に野心的な人が抵抗するのは難しい。
自由主義者になりなさい、人々の信条はほとんど問題にならないと認め、結局根本的には同じものであると認めよ。あなたの信仰があなたのためにあるように、ほかの宗派の信仰も同じく良いものでと認めることで、あなたの心の広さを示しなさい。彼らの知識の範囲で、彼らはあなたと同じく正しいのであり、人が信ずるべきことは大部分は教育の問題であり、個人の性質の問題なのです。
そうして、あなたは、自らの信条の狭い制約から逃れた心の広い人間として、すぐにでも激励されることだろう。あなたは広く支援されるようになる、というのも、リベラリズムは改宗者にとても寛容だからだ。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むならば、これらのものを皆あなたにあげよう(聖マタイ4・9)」と、サタンは砂漠でイエズスキリストに向って言っている。
リベラリズムへと逸脱させる通常の原因がこのように存在するわけで、こうした原因(3つの頭を持つ獣)から他のすべてが生じる。世界と人心を経験する者はだれであれ、それらを発見することができるのです。
How Catholics Fall into Liberalism Fr. Felix Sarda y Salvany
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